富貴の地名と阿弥陀院縁起
富貴は古くから高野山領で、天正十九年(1591)・慶長十年(1605)の記録にも高野山領として記載されている。
続風土記には街道について、富貴を過ぎて水呑峠より天ノ河辻に至るを橋本辺りより熊野へ行く道筋と記され、古くからの熊野詣での道筋であった。
当地は神代(神武天皇以前の時代)の頃富貴盆地の中央に立つ山に二十四本の松の木があり神々しい松の杜であった。その松の木陰に厳めしい武神が現れ「朕は是素戔嗚宇命にして疫癘や諸禍を払い福徳を授け富貴の身と成さん」と誓願を立てられた。その杜の松を五葉の松と呼び神木御神体とし、神の杜と崇め二四の杜と呼んで天神宮を建立し鎮守とした。それ以来この地を富貴と名付けた。
その後、天平勝平五年(753)六月、二四の杜天神宮に薬師如来を安置し西御寺神宮寺を建立した。
平安時代に入ると高祖弘法大師が密教修練の道場を高野山上に建立しその聖地を女人禁制のお山とされた為高野山の東端の富貴の地を女人高野の霊場とした。
天暦元年(1183)祐覚阿闍梨が西御寺神宮寺境内に一院を建立したのが阿弥陀院であった。
神宮寺の全盛期には数千坪の境内に十三仏堂、求聞持堂、大師堂、護摩堂、聖天堂、毘沙門堂、権現堂等二十数棟の諸堂が軒を連ね荘厳威容を誇ったのである。 その後寺運変遷を免れず、享保、天明、天保と五十年続きに大飢饉に襲われ諸堂は荒廃し、明治の廃仏毀釈の猛風に仏像・諸堂は朽ち損壊甚だしく神宮寺の仏像・法具等を阿弥陀院本堂に集めて祭祀し現在に至る。